朝の混雑した駅の中で人の流れを見ていると、

歩くそれぞれの人に少しずつ、遅い、早いはあっても、

全体を眺めれば、その時の状況に合わせた「全体的な流れの速さ」「全体的な流れ」があります。

その自然の流れに乗ると、スムーズに動けるのですが、

中には、それとは関係なく流れのど真ん中で立ち止まって考え込んでいる人もいて、

そうすると流れの中の石のように、

歩く人の荷物の端っこが度々ぶつかったりするし、知らぬ間に自然の流れを邪魔してしまったりしているわけです。

メジャーな流れの中の人にとっては、まあ「邪魔者」。

でも、立ち止まっている人から見れば、流れに乗る多数派の人々は、「他人の立場に無理解で冷たい人」であるのかもしれない。

あるいは、「本当の流れがわからない愚者ども」??

なんて思っている超人もいるかも?

いずれも、「怒り」「いらだち」「悲しみ」など感情の変化をともなう現象ではあります。

ところが、これの全体を俯瞰してみれば、

流れに乗れない人は、そっと流れに関係のないところに導いてやり、

流れに乗る人も、水が柔らかに石の形にそって流れ去るように、

立ち止まる人をそっとしておいてスルーすることだってできるはず。

立ち止まる人も、多くの人が流れに乗るには、その理由があることに気づくことだってあるでしょう。

こう考えてみると、

「俯瞰する」とは、自分の立場を突き放す、ということなのでしょうか。

人生、さらりと行くにはこれが必要かな、と思った次第。